
初舞台脚本作品より一部抜粋
まだ名前もない、人格もない、私の話。
訳ありの家族が最終的に幸せになる物語を見て泣ける人ってどんな気持ちなんだろう。
一体、何に泣いているんだろう。
どうして、泣けるんだろう。
多分、泣く理由は大抵の人が同じ。
その家族は、互いに愛し、愛されているハッピーエンドだから。
涙を流した人たちは見終わった後にこう言う。
「すごい泣けたよね。感動したよね。」って。
この人たちを見ると思う。
「あぁ、何も知らないで幸せに生きてきたんだな。この人たちにとって、この物語は永遠にフィクションで自分の世界には永遠に関係のない話なんだな。」って。
この人たちは今度、こう言う。
訳ありの家族が、そのまま幸せになれず、バッドエンドを迎えたら、「考えさせられた。私は幸せだったんだ。」って。
思う。
「ああ、この人たちは本当に何も知らない。こんなことが本当に現実に起こっているなんて感じる気すらない。」
昔からドラマや映画の中の人が羨ましかった。
フィクションの世界では、主人公が怒鳴り声をあげれば必ず黙って話を聞いてくれる大人がいて、主人公が1人で涙を流していれば、必ず誰かが気がついてくれる。
羨ましくて、悔しかった。
いつか、自分にもそんな日が来るんじゃないか、そんな人が現れるんじゃないか。
そんな可哀想な期待を抱いてきた。
20歳になった。
そろそろ、嫌と言うほど思い知る。
フィクションは所詮フィクションで、現実とは違う。
頑張っている人が必ず誰かに見ていてもらえるなんて嘘だ。
強がっている彼女の本心に気がつく彼氏なんて嘘だ。
なんでも言い合える友達なんて嘘だ。
自分を理解してくれる、名前のつけらない関係性の人なんて嘘だ。
現実はいつも気がついてくれない。
私の姿に、声に、涙に。
こんなどうしようもない現実に何を叫べばいい。何を伝えればいい。何を理解してもらえば良い。
私は誰も責めたりなんてしない。誰も恨んでない。
ただただ、思い知らされる。私が求められている像がいかに私とかけ離れているのかを。
理解されない。分かってくれない。誰も私を見ようとしない。
私だって、初めから「理解してもらう」ということを諦めてたわけじゃない。
私はどこで、自分を諦めたんだろう。どこで自分を捨てたんだろう。
どこで、自分を生きるのを辞めたんだろう。
これまでの人生で、私は自信を持って誰かに愛された。という記憶がない。
私は愛されていない。愛されるはずがない。
だって、母親ですら私に興味がないんだから。
私にとって、愛は興味だ。
今日、何したの?
誰と、どんなことを話したの?
今日の給食は美味しかった?
何を勉強したの?
どう思ったの?
私にはこんな愛はなかった。
「あぁ、私に興味がないから誰も聞かないのか。」と理解するのは早かった。
母親からそんなことを悟った後も、沢山の人に、沢山の関係値に期待をした。
先生、友達、好きな人。
誰も私に興味は持ってくれなかった。
そんなことはないんだと思う。きっと、持ってくれていた。
自分のできる範囲内で、相手に見えている私を愛してくれていた。
分かっている。
そのうち、相手に良いように自分が見てもらえるように生きる術を覚えた。
そうしないと生きられなかったから。
おかげで随分と愛される人格を作ることができた。
そう、作ったんだ。私は私ではない、私を作った。
無性に腹が立つ。
私は生きるために、自分が生きやすいように、「私」じゃない私を作ったのに。
その私が愛されるとは。
あんまりにも皮肉だ。耐えられない。
私は、ただ、聞いて欲しかった。
日々のどうでもいいことを、世界の人が当たり前に向けられている興味という愛を、
誰でもいいから与えて欲しかった。
そしたら、私ね、って沢山話をしたかった。
私が作った私じゃなくて、「私」の話をしたかった。
まだ名前もない、人格もない、私の話。
ただそれだけで良かった。
私の愛は、そんな小さな、ほんの小さなこと。
でも誰もくれないから。
努力したのに、くれないから。
自分が誰かを愛さなきゃ、誰も愛してくれないよっていうから、愛したのに、
誰も、私が欲しい小さな愛をくれない。
嫌になるな、本当に嫌になる。
人生も、地球も、嫌になる。
何もしたくない。誰も私に話しかけないで。寄らないで。
「この人は私の前からいなくならない」
「この人は私を否定しない」
そんな保証はどこにもない。
諦めている。とっくの昔に諦めた。
生物として、人間は自分が一番大切で可愛いに決まっている。
私だってそうだ。
だから、もう仕方がない。
もう、諦めたんだ。とうの昔に。もう良いんだ。疲れる。
愛されたい。ほっといて。
頑張りたい。何もしたくない。
生きたい。生きている意味がない。
こんな説明のしようのない感情を毎日毎日、何年も何年も、感じながら生きてきた。
私が本気で幸せを感じられる日なんてきっと来ない。
私は人生に向かない。
別に死にたいなんて思わない。
ただ、生きている意味がないんだ。
自分に価値がないんだ。
どれだけ頑張ったって、一生懸命価値をつけたって、それは結局「私」ではないんだから。
自分がどんどん、線になっていくような感じがする。
フラットに、何もないところに、戻っていくような。
私はここが心地良い。
自分を知らずに、世界も知らずに、感情も、思いも、何も知らずにいれる、
ここが心底心地良い。
なんて、侘しい。
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自分の価値が分からなくて、自分の肯定の仕方が分からなくて、
【耐えること】それは私にとってものすごい美学だ。
耐えるというのは一般的には難しくて、誰もが簡単にできることではないらしい。
だから耐えている自分はすごいことをしてるんだと、耐えることはとても偉いことなんだと。
いやただ、私はよく生きているんだと思いたかっただけかもしれない。
どうやら人は耐えることの中で、1人きりで孤独に耐えることが何よりも嫌で難しいと感じているらしい。
だから、1人になるようにした。多分、無意識に。
そうすれば、そんなすごいことをしている自分を自分で認めて、誰かの愛に頼らなくても生きていけると思った。
いつ切れてしまうか分からない不確かな愛なんてものに依存しなくて済む。
愛情は、脆くて、朧気で、危うい。
だから怖い。
誰から貰った愛で自分の一部を形成していたら、その愛が途切れた時、私は私の一部を失う。痛い。辛い。死にたい。
私は人が好きだった。大好きだった。
だから許せなかったのかもしれない。上辺だけの自己満足的な声をかけてくる人が、私には受け入れられなかった。中途半端な愛が、私には愛に感じられなかった。
だって、私はこんなに好きだから。同じ熱量で返してもらえないことが嫌だった。
だから線を引いた。あくまでもこれは私からの一方的な愛だと。
別に相手は私のことを愛さなくていい。
私が好きだから、勝手にやっているだけで、相手に見返りなんて求めないと決めた。
それでも私は愛がなきゃ生きられなくて、少しでもいいから欲しくて、毎日毎日愛されたかった。
私は誰かを愛していると思いたかったんだ。
自分にはきちんと愛があると、決して寂しい人間なんかじゃないと、誰かを愛している自分を通して思いたかったんだ。
愛を与え続けていれば、いつか相手も同じ熱量で返してくれるんじゃないか。
そう思って、愛されたいから、相手を愛した。
私が欲しかった、私の思い描いている愛情は、
無条件で半永久的な愛情。友達や恋人からは得られない母親特有の愛情。
それがどうしても欲しかった。
まるで死ぬまでその愛情が確約されているかのような、絶対に近い愛情。
それで満たされたかった。安心したかった。
逆に言えばそれがなかったから、
誰かの愛に依存なんかしなくたって生きていけるようにしたかったんだ。
1人でも生きれると自分で自分に言い聞かせたかった。
もう2度と、愛してほしいなんて気持ちから涙なんて出ないように。
そんなやるせない気持ちには死んでもならないために。
こんな方法でしか自分を保ってこれなかった。
自分を保つために周りの人を拒絶した、そんな生き方をもう卒業しなきゃならない。
自分のこれまでの生き方に後ろめたさを感じながら生きるのは、
「やっぱり、私はあの頃のせいで一生変われないのか」と思うのはしんどいんだ。
あの頃の自分を憎みながら、嫌いながら、責めながら、生きるのはもう、いいんだ。
こんなふうにしか生きてこられなかったけど、
それでも、それでも、一生懸命生きてきたんだ。
自分が一番よく知ってる。私、頑張って生きてきた。真っ当な方法じゃなかったかもしれないけど、それでも死なずに生きてきたんだ。
耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、ただ、誰にも何も言わず、必死に、必死に耐え抜いてきたんだ。
「今まで、よく頑張ったね。私。」